ノーライフキング/いとうせいこう
80年代後半、ちょうどファミコンが子どもの世界に定着した頃の発表です。
「ライフキング」はゲームソフト。
子どもだけが知る裏ワザ、情報。
それが広まる独自のネットワーク。
そのネットワークの中で、「ノー」ライフキングは生まれ、巨大化していきます。
子どもと大人の対比として語られることが多いようですが、たとえば「大人はわかってくれない」というようなことが書かれているわけではありません。
まず前提として、「私たちが生きているこの世界に現実感(リアル)を感じられるか」というのが共通の問題意識になっています。
そこに大人も子どももありません。
「マスコミ」によって、いとも簡単に「リアル」がひっくり返ってしまう人々。
「マスコミ」は「大多数」の人々と言い換えてもいいと思います。
つまり、「マスコミ」によってリアルが形成されている人々、そこに疑いを持たない人々です。
好き嫌いの問題ではありません。
例えば、まことの母、水田、テレビタレント。
一方、まことを中心とした子どもたちのうわさは、「マスコミ」によって報道(消費)されたとたんに、価値を失い、次のうわさへと飛びます。
子どものコミュニティーで「リアルさ」を持っていたものが、「マスコミ」に報道されたとたんに、「リアルさ」を失ってしまうのです。
これも大人がリアルでなくて、子どもがリアルだということではありません。
事実、子どもの側にあるのも「リアルさ」であって、本当の「現実感(リアル)」はないのです。
でも、子ども側は「リアル」を求めています。
一見現実とは程遠いゲームにも「リアル」を探します。
そして、ターニングポイントは「死」の意識。
主人公が、「死」を意識したとき、「まわりをうかがい」だします。
まわりは現実。
そして、まわりをうかがいだした主人公は、何度も「くるりくるり」と方向転換をします。
そう、ゲームに現実が宿った瞬間です。
もちろんゲームに現実があるといっているわけではありません。
でも、現実感を失った世界に生きている私たち。
リアルを求める心があれば、それはゲームのような無機質なものの中に宿ることがあるのかもしれません。
子どもたちは、現実を知り、また何事もなかったように元に戻っていきます。
「非現実」から「現実」へではありません。
「現実を垣間見た瞬間」から、「現実感を感じられない日常」へ。
時代がずれていて読めないという意見もあるようですが、本作には塾でのコンピューター装置で「つながる」システムが登場します。
これがネットと同じ、決定的な役割を果たしています。
本質は現在も変わりません。
中学生以上なら行けます!
どうぞ。