読書の町宣言!唐十郎「佐川君からの手紙」

内容(「BOOK」データベースより)

「私の事件を映画化なさるそうですが、主演させてください」―ある日、サンテ刑務所から1通の手紙が舞い込んだ。犯行者との息を呑むような文通のあと、面会を求めて渡ったパリで、数々の奇怪な出来事と遭遇する。虚実の境をわたり、幻想のあやなしにあらがいながら、劇的想像力が照らし出す極限の「愛」―カニバリスム。1981年6月、パリで起った人肉事件の謎に迫る衝撃の話題作。芥川賞受賞。

 

実話をもとにしたこの作品。題材が題材だけに特にこの21世紀の空気の中でこれを読むとちょこちょこ不謹慎に思える箇所が多く出てきます。

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読書の町宣言!今村夏子「こちらあみ子」

先日の芥川賞を受賞した今村夏子。

デビュー作の「こちらあみ子」です。

太宰治賞を取った今作を手に取ったのは半年ほど前。最初の数ページで引き込まれる独特の世界観。「こちらあみ子」は2010年の作。その後の芥川賞受賞も当然の流れです。

内容(「BOOK」データベースより)

あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。(Amazon)

 

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読書の町宣言!フラナリー・オコナー全短編

久々の読書関係の更新です(読書の町宣言をしている大子町、手本は大人からということで読んだ本をアップしています)。

今回読み終えたのはアメリカの作家フラナリー・オコナーの全短編集の上巻です。さわやかな読後感とは無縁、一編読むごとにやりきれなさがずっしりと胸にこたえ、あとあとまで引きずります。

内容(「BOOK」データベースより)

フラナリー・オコナーは難病に苦しみながらも39歳で亡くなるまで精力的に書き続けた。その残酷なまでの筆力と冷徹な観察眼は、人間の奥底にある醜さと希望を描き出す。キリスト教精神を下敷きに簡潔な文体で書かれたその作品は、鮮烈なイメージとユーモアのまじった独特の世界を作る。個人全訳による全短篇。上巻は短篇集『善人はなかなかいない』と初期作品を収録。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

オコナー,フラナリー
1925‐1964。アメリカの作家。アメリカ南部ジョージア州で育つ。O・ヘンリー賞を4回受賞し、短篇の名手として知られる 

横山/貞子
1931年生まれ。京都精華大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

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読書の町宣言! 人間失格/太宰治

人間失格/太宰治

 

「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。 Amazon 内容紹介より

 

 

太宰治
1909‐1948。本名・津島修治。青森県北津軽郡金木村(現・青森県五所川原市)の地主の子として生まれる。1930(昭和5)年、東京帝国大学(東京大学)仏文科に入学、井伏鱒二に師事、小説家を志す。1933(昭和8)年、同人誌「海豹」に発表した『魚服記』、『思ひ出』という作品で注目され、戦後は人気作家として多くの作品を精力的に発表した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)BOOK著者紹介情報より

 

マイアイドル太宰治。

中でも人間失格は10回は読んでると思います。

 

ですが、寂しいことに最後に読んだのはおそらく10年以上前。

 

夏期講習の合間、不惑にして読む「人間失格」。

新たな発見に満ちていました。

 

ご存知の方も多いと思いますが、自殺未遂、薬物中毒など自身の体験を下敷きに書いたのが人間失格。

「負」、「破滅」へ向かうの求心力はすさまじいものがあります。

だから、どうしても葉蔵中心、退廃のヒロイズムにあこがれて、自らを重ね合わせてしまうのが、一般的な読み方。

 

 

また、一説には10代で卒業する(しなければならない)といわれる太宰治。

その理由は、極端な自意識過剰と自己愛です。

 

そこを文学まで高め、私小説を完成させたのが一番の功績かと思いますが、

でも、

機会があれば改めて紹介しますが、日本文学において並ぶもののない技巧派の面、また案外ポジティブな面も太宰治は持ち合わせています。

 

技巧派の太宰でもっとも有名なのは「斜陽」の冒頭

朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
かすかな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。

 

これほど完璧な冒頭部分は読んだことがありません。

「あ」の一言で、

喪失感、取り返しのつかない後悔、底知れぬ不安を読者に掻き立てます。

そして、「スウプ」、「ひらり」の単語の使い方が見事。

初めて読んだときは、小説、言葉にはこんな力があったのかと衝撃を受けました。

 

 

ポジティブな太宰の代表は「パンドラの匣」のラスト。

 

私は何にも知りません。しかし、伸びる方向に陽の当たるようです。

 

太宰版青春小説と読んでもいいくらいさわやかな作風、「人間失格」と同じ人物が書いたとは思えない落差がそこにはあります。

ちょっと暗そうで嫌、という生徒は「パンドラの匣(はこ)」を一冊目に持ってくるのもいいかもしれません。

 

 

そして、「人間失格」の冒頭。

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞のはかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
といい加減なお世辞を言っても、まんざらからお世辞に聞えないくらいの、わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
すこぶる不快そうにつぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

 

「ただ一切は過ぎていきます」の有名なラストより、「人間失格」のエッセンスはこの冒頭部分に集約されているかもしれません。

 

そして、再読した「人間失格」は、意外なほどユーモアがちりばめられていることに驚きました。

ユーモアの天才と言われる太宰治、

こと人間失格に関してはユーモアを封印、遺書として書いたというのが定説ですが、

お道化のくだり、歩道橋のくだり、女性関係のくだり、堀木のくだり、

極めつけはラストのヘノモチンなどなど、

 

シリアスな場面になればなるほど、必ずクスリとさせるユーモアがあるのです。

ユーモアとペシミズム(悲観主義)は紙一重。

つまり、作中で言うならシノニム(同義語)。

 

ユーモアと絶望感の同居、

この独特の感覚が今も若い読者をひきつける理由なのでしょう。

 

また、太宰=葉蔵は退廃的と言われますが、葉蔵はたぐいまれな純粋さを持ち合わせています。

葉蔵が人間を信じられないのは、人間の純粋さを信じては裏切られるからです。

いや、裏切られてもなお信じてしまう、信じない自らを罰する人生が葉蔵なのです。

 

そして、

本心を隠して本当のことを言わない、自分を棚に上げて他人を見下す、エライ人の前では平気で仮面をかぶる等々、

「人間として当たり前とされる」営みにうまく加われない。

いろいろ努力してきたが、やはり無理だ。

「人間生活」がやっていけない葉蔵はついに「人間失格」となるわけです。

 

もっと言えば、

戦後、激動の変化を遂げる、手のひらを返したような態度をとる人間たちが「人間」だとするなら、太宰治は「人間失格」で構わないということです。

 

太宰治的な自意識を「中二病」というのならそうなのかもしれませんが、私は「中二」の側に立ちたいと思います。

自意識万歳、中高生の皆さんは、ぜひ葉蔵の世界にどっぷり使ってください(先日も中二の生徒が読んでましたね)。

そして、「斜陽」や「ヴィヨンの妻」など抑制のとれた作品にも触れてください。

 

ですが、もうひとつ、

不惑を過ぎたものとしての「人間失格」について。

 

葉蔵、太宰への全面的な共感を未だに感じるものがいれば、それこそ欺瞞です。

永遠に葉蔵でありたいと思っていても、いつしか葉蔵ではいられなくなっていきます。

中2病だった子供たちも、人生を続ける以上、程度の差こそあれ、やはりいつか、どこかで大人になっていきます。

 

つまり、作中の父やヒラメにならずとも、葉蔵側でなく、堀木の側に自分が立っていると自覚すべきなのではないでしょうか。

 

これまで読んできてあまり気に留めなかった一節が今回の再再読で突き刺さりました。

葉蔵が、堀木に向けた、言葉にできなかった言葉です。

 

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたがゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬るのはあなたでしょう?)

 

いつの間にか、葉蔵の側から、堀木の側にいた自分(もともと堀木の側にいたのかもしれません)。

「世間というのは、君じゃないか」

太宰治を死に追いやったのは僕やあなたかもしれません。

太宰治の年齢を超えた今、新たに胸に刻んで行こうと思いました。

 

 

 

 

読書の町宣言! 鏡川/安岡章太郎

鏡川/安岡章太郎

 

私の胸中にはいくつかの川が流れている。幼き日に見た真間川、蕪村の愛した淀川、そして母の実家の前を流れる鏡川だ―。明治維新から大正、昭和初期までを逞しくも慎ましく生きた、自らの祖先。故郷・高知に息づいた人々の暮らしを追憶の筆致で描く。脱藩した母方血族、親族間の確執を恋慕、母が語ったある漢詩人の漂泊…。近代という奔流を、幼き日の情景に重ね合わせた抒情溢れる物語。(BOOKデータベースより)

 

安岡/章太郎
1920(大正9)年、高知市生れ。慶大在学中に入営、結核を患う。戦後、カリエスを病みながら小説を書き始め、’53(昭和28)年「陰気な愉しみ」「悪い仲間」で芥川賞受賞。弱者の視点から卑近な日常に潜む虚妄を描き、吉行淳之介らと共に「第三の新人」と目された。’59年「海辺の光景」で芸術選奨と野間文芸賞、’81年「流離譚」で日本文学大賞、’91(平成3)年「伯父の墓地」で川端康成賞を受けた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)(BOOK著者紹介情報より)

 

 

日本文学必読の「海辺の光景(かいへんのこうけい)」の安岡章太郎。

 

作者80代後半の作が「鏡川」です。

大佛次郎(おさらぎじろう)賞も受賞しているように、自らの血筋をたどる歴史的、ルポ的な性格の強い作品です。

明治期から昭和まで、とっかかりのある人物に焦点を当てながら、近代から現代への移り変わりを描きます。

 

ですが、

そこは小説家。

ただ歴史上の事実を拾い上げて記録しただけではありません。

 

ところどころ、

ここは明らかに創作だろうという箇所が。

 

系譜中、もっとも作者が親近感を覚えたのではないかと思われる西山麓(にしやまふもと)。

漢詩で一部有名だったそうですが、一般の人は普通知りません。

その西山麓ですが、実に魅力的な人物で描かれています。

特に後半は、一つの完結した小説のようになっています。

 

また、寺田寅彦(とらひこ)が安岡章太郎の親戚だったというのも驚きです。

寺田寅彦は、物理学者としての顔だけでなく、名文家としても有名。

ひょうひょうとして、無駄のない、独特の語り口で面白い文章を書きます。

実は国語のテキストの常連でもあり、学び舎生の皆さんも間接的に読んでいるはずです。

各学年に一度は出てくると思います。

今度、気をつけて読んでみましょう。

 

 

ですが、

この鏡川、正直に言って読みにくいです。

安岡章太郎をまだ読んだことがないという人は、

「質屋の女房」、「海辺の光景」から入りましょう。

また、一族の歴史を軸に、幕末の歴史を描いた「流離譚」もあります。

 

 

読書の町宣言! 想像ラジオ/いとうせいこう

 

想像ラジオ/いとうせいこう

 

内容(「BOOK」データベースより)

深夜二時四十六分。海沿いの小さな町を見下ろす杉の木のてっぺんから、「想像」という電波を使って「あなたの想像力の中」だけで聴こえるという、ラジオ番組のオンエアを始めたDJアーク。その理由は―東日本大震災を背景に、生者と死者の新たな関係を描き出しベストセラーとなった著者代表作。

 

マルチに活躍するいとうせいこう。

キャリアは十分ですが、小説家としては寡作。

野間文芸新人賞受賞、受賞はなりませんでしたが、たしか芥川賞にもノミネートされたはず。

 

東日本大震災を題材にした「想像ラジオ」。

皆そうだと思いますが、ダメージを受けすぎていて、興味はありつつ置いておいてしまってました。

 

「死者を悼む」とは、「生と死」とは、

文学の世界では、もはやありきたりとさえ言われるこのテーマは、

震災以降、また違ったとらえ方を迫られています。

 

そこに果敢にトライした、

トライせざるを得なかったいとうせいこう。

その姿勢に感服するものの、

でも、なにか釈然としない読後を感じていました。

 

東日本大震災では茨城県も被災地。

大子町の被害はさほどではありませんでしたが、

電気が関東の他地域に比べ復帰が遅かったこともあり(5日くらい?)、

情報はラジオだけ。

津波の映像は電気が復帰してようやく目にしました。

このメディアの情報不足が、東日本大震災の時の一応当事者である僕と「想像ラジオ」のギャップを感じさせたのかもしれません。

 

ですが、今回の熊本地震、

当事者としてではない自分がリアルタイムに情報に接し、見方が変わったように思います。

 

死者を思うこと、悼むことは当然のヒューマニティ。

ですが、

圧倒的な暴力(災害)がメディアを通して洪水のように伝わっていきます。

対応の遅さが批判されていますが、

自衛隊の派遣や企業の物資運搬や募金、一般の人のボランティアなどのアクションは、

僕にとってはすごいスピード感です。

 

情報の伝わってくるスピードも速く、発生直後から途切れなく情報が入ってきます。

災害の客観的な情報とともに、救えるはずの命を目の当たりにもします。

当事者の悲しみや怒り、

当事者でない人たちの悲しみや同情、

災害の事実とともに、自他を含めた処理できないほどの圧倒的な量の感情を受け止めなければならないのです。

 

その感情量をすんなりと受け止められる人々、

作中のボランティアのように感情の一部を割り切って進む人々と、

感情を受け止めきれずに、漠然とした罪悪感を抱いて進めない人々がいるのではないでしょうか。

 

もちろん感情の受け止め方に良し悪しはありません。

 

執筆したいとうせいこうも、東日本大震災では感情を受け止めきれなかったのではないかと想像します。

本文でも出てきますが、悲しんでいないということとは違います。

受け止めきれない漠然とした感情、気持ちを整理することは、個人的な問題でもあり、思い上がりであり、被災された方に直接寄り添うようなものではありません。

 

でも、

残ったものひとりひとりが、個人的に(いっぺんに被災するわけですが、体験は個人的です)その感情を整理することは、前に進んでいくことにつながります。

 

震災から5年がたち、検証が行われ、

復興や支援など行政の問題もゆっくりとではありますが粛々と進んでいます。

それでも消えないのは、

残されたものがあの体験をどう処理していくか?

ということだと思います。

答えは個人の中にあり、心のケアなどで簡単に解決できるようなものではありません。

 

震災から5年、

文学、物語の力が今こそ必要なのかもしれません。

 


 

 

 

 

 

読書の町宣言! 高く手を振る日/黒井千次

高く手を振る日/黒井千次

 

近年の黒井千次の名作、「高く手を振る日」です。

 

内容(「BOOK」データベースより)

妻を看取って十余年、人生の行き止まりを意識し始めた嶺村浩平は、古いトランクからかつての大学のゼミ仲間・瀬戸重子の若々しい写真を見つける。そして甦る、重子と一度きりの接吻を交わした遠い思い出。思わぬ縁で再会した重子の勧めで、七十代にして初めて携帯電話を持った浩平は、秘めた想いをメールに込めるが…。恋に揺れる、老いの日々の戸惑いと華やぎを描く傑作小説。

 

前半に繰り返し出てくる、「行き止まり」の感覚、もちろん老いの先にある「死」です。

時に遠く、時に切迫した感覚として主人公にまといます。

ちょっと難しいかもしれませんが、この行き止まりの描写がすごい!

 

土鍋の中で粥でも煮るように様々の思いがぶつかり合い、曖昧に形を崩しながら次第にまとまっていく気配

 

黒井千次には、はっとさせる描写がいつもあります。

他にもメールのやり取りのくだりは名文の宝庫!

こちらは自身でご確認を。

 

 

ネタバレなしでいきますが、甘酸っぱく、切ない後半について少し。

 

老いてからの恋愛、

確かにそうなのですが、

最後に流れる古い時間。

詳しくは書けませんが、最重要なのは「家」です。

 

浩平が作ったモルタルの家、

灰色がかって濁った壁面、

小さな庭に所狭しと植えられた木。

何でもない、

おそらくおじいさんの家と聞いて僕らが思い浮かべるような家。

 

「あのおうちに住んでたのね」

重子の発する一言は、浩平、芳枝に対する、はたまた重子自身、彼らの世代全部に対する全肯定。

 

小説には書かれていない、たくさんのことが詰まった家。

人生と人生が、最後にまたクロスする。

 

何が起こったのか、そしてもう何が起こらないのか、承知しているようでまだ認める気にはなれない平原のような領域

 

老いについて書かれていますが、まだ達観しているわけではありません。

 

そして、この切ないかつ活き活きと感情豊かな老後。

今までの老人像を覆す、新しい老人像です。

でもこれは黒井千次の時代の老人。

これからの老いはまた違った形をたどるでしょう。

 

新しい時代を生きる私たちだからこそ、また違った老いが待ち受けているはずです。

その老いを私たちはしっかり生きられるかどうか、

毎日を誠実に生きて、

新しい生き方を模索するように、新しい老い方をも探っていかなければならないのでしょう。

 

老い老いと繰り返してしまいましたが、第一級の文学作品です。

老いを意識していなくとも(僕もそうでした)、引き込まれますのでご安心ください。

高校生以上、また保護者の方もどうぞ。

 

読書の町宣言! スクラップ・アンド・ビルド/羽田圭介

 

スクラップ・アンド・ビルド/羽田圭介

だいぶ間があきました、冬頃の読了、スクラップアンドビルドです。

芥川受賞以来、テレビへの露出も増えたので、ご存知の方もきっと多いでしょう。

 

内容(「BOOK」データベースより)

「早う死にたか」毎日のようにぼやく祖父の願いをかなえてあげようと、ともに暮らす孫の健斗は、ある計画を思いつく。日々の筋トレ、転職活動。肉体も生活も再構築中の青年の心は、衰えゆく生の隣で次第に変化して…。閉塞感の中に可笑しみ漂う、新しい家族小説の誕生!第153回芥川賞受賞作。

 

 

又吉直樹の受賞があまりにも話題になっていますが、こちら羽田圭介も特異なキャラクターで作家としては精力的にメディアに露出しているようです。

 

さて、受賞作の「スクラップ・アンド・ビルド」。

ネット評などでは介護がテーマのごとく扱われているようですが、介護は下敷きに過ぎないと思います。

 

ネタバレになるので多くは書きませんが、

細かくは世代間ギャップ。

大きくは、「現代人にとって生きるとは?」を模索しているのでないかと思います。

 

そもそもがスクラップアンドビルド。

スクラップして、再構築。

 

主人公の再構築。

祖父の再構築。

 

祖父にどうしても焦点が移りますが、着目すべきは前半。

まともに受け止めると「これで芥川賞?」といった筆致。

これは明らかに故意。

 

前半の主人公視点の祖父観、世界観は驚くほどにつたないのです。

 

祖父の気持ちになって、母の気持ちになって、彼女の気持ちになって、あの年代はこうだから、僕らはこういう環境だから、こういう世の中だから...

 

どんなに相手のことを推し量ったつもりでも、前半の主人公は上滑り。

すべてリアルじゃない。

そして、中途半端に相手を分かったつもりで進む(自分では相当相手を理解したつもりで)のが物語のミソ。

 

そのまま受けちゃうとただの介護小説になってしまいます。

 

「祖父ってなに?」はスタート地点。

祖父ってなに?から始まって、

「僕ってなに?」

にたどり着くのです。

 

その過程にあるのは、今までのスクラップ。

そして、これからのビルドアップ。

 

一見よくある自分探しの話に感じるかもしれませんが、

上の世代も、下の世代も、

全くゼロなわけでないから厄介。

 

戦後50年をとうに超え、実はモデルが出来上がりつつある現代。

モデルがあるから、旅に出ようにも出られない。

どこにも行けないから、語りたくなるし、評したくなって、周りが見えなくなります。

 

ラストは、

祖父、母というバックグランド、世代を越えて、

新たな地へ。

実にしょぼい旅へ。

 

でもそれが新しくビルドアップしていく自分。

その半端さが、すごく新しいし、現代的なのです。

 

羽田圭介、学び舎を始めたころ、文藝賞を高校生で受賞して衝撃を覚えました。

 


あれから、10年超。

すごいビルドアップ、おめでとうございます。

 

読書の町宣言! 火花/又吉直樹

火花/又吉直樹

話題先行とか何やらいわれていた、ピースの又吉さん。

あまりテレビは見ないので本人を詳しく知りませんでしたが、これは本物!

冒頭の数ページ。

「世間」と「僕」の関係が、見事に表現されています。

文体も意識的に一文を長くして、脳内の苛立ちと孤独が分かりやすく伝わってきます。

この数ページで、ネット等でも言われていた出来レースなどの疑念は払拭。

もし、そういった理由で敬遠している人がいたらもったいない!

100%純文学。

まずは先入観を抜きにして手に取ってください。

 

さて、

火花は、一言で言えば、「僕」対「世間」の物語です。

漫才師は、人を笑わせること、人に認められることが至上命題です。

では、ここで言う「人」とは?

それは漠然とした、きわめてあいまいな「一般の人」、いわゆる「世間」です。

異物感を抱えて生きる「僕」と対峙する「世間」。

そう、実はテーマは純文学の王道なのです。

 

頭の中で面白いと思っていることと、人前で面白いと思わせることは違います。

普通とずれているのがお笑い、でもずれすぎては笑いが分からない。

いくら頭の中で考えていることが突飛でも、それを世間に伝えるには技術がいります。

そもそも人は、「ずれている」ところ、「人と違う」ところで笑うのではありません。

一見「ずれている」ところが自分の中に潜む何かと共鳴しあって、初めて人は笑うのです。

だから、人と異なっているだけ、ずれているだけでは面白くない。

もちろん、ずれているところがなければ面白くない。

 

大事なのは、その兼ね合い。

お笑いとは、コミュニケーションなのです。

では、なぜわざわざ漫才師を目指すのか。

それは、彼らのコミュニケーションの欲求です(少なくとも、僕徳永と神谷さん)。

世間とそもそも相容れない彼らが、お笑いを通して(それしか手段がない)、世間とのコミュニケーションを試みているのです。

 

つまり、人とずれているところが出発点であり、それが面白さの源。

でもそのずれを見せているだけでは面白くない(そのずれが元から世間にはまっている例が鹿谷)。

ずれを世間に通じるよう、すり寄っていく。

自分の頭の中では、頭の中で考えていることが一番面白い。

世間にすり寄っていくから、自分の頭の中では面白くなくなっていく。

すると、世間は自然に敵対するものへとなっていくのです。

 

ここからネタバレ少しあるのでご注意!

 

 

コミュニケーションの欲望とそれが受け入れられないことへの絶望。

(一義的には人を笑わせられないということ)

冒頭の「花火」のシーン。

観客との一方通行の漫才ですらない漫才は、まさに観客と「火花」を散らしています。

 

一転してラスト近くの「花火」のシーン。

徳永と神谷は「観客」として「花火」を見ています。

(「火花」から「花火」へ、世界が逆転しています(世界を覆す漫才))

企業スポンサーの派手な花火に紛れて、一般男性提供の告白メッセージを伴う花火が打ちあがります。

「愛の告白を花火を通してする」、これは表現者のもっとも忌み嫌うありきたりな行為。

世間ど真ん中、究極のステレオタイプです。

ところがこの花火、スポンサーが一般男性だからしょぼい。

かっこいいことがしたいのに、非日常を演出したいのに、想像を絶するしょぼさ。

この落差は「ずれ」。

笑うべきお笑いの対象です。

でも、世間の反応は違います。

その日一番かという大きな拍手が、花火を盛り立てます。

そして、徳永と神谷の二人も手が赤くなるほどの拍手を送ります。

これが「世間」、「人」。

 

もうすでに2人は気づいています。

「世間」は決して「火花」を散らすべき敵対するものではないということ。

「世間」におもねることは絶対に答えではありませんが、その「世間」の中から愛すべきお笑いが生まれること。

異物感を抱えながら、「世間」とかかわっていくことでコミュニケーションが生まれること。

つまり、

人が生きていくこと、それ自体がそのまま漫才、コミュニケーションなのです。

 

小難しく書いてしまいましたが、

純文学初めて!という方、中高生の方、解釈はそれぞれ。

いや、解釈も必要ないかもしれません。

でも、どこか面白いな、と感じたら、自分なりに突き詰めてみると小説の世界が広がります。

ストーリーはただのいれもの(重要ないれものですが!)。

その中身を感じて、新しい世界を広げてください!

今回、久々に文藝春秋で読みました!
羽田圭介も読めますよ。

 

読書の町宣言! ポロポロ/田中小実昌

ポロポロ/田中小実昌

 

この時期になるとどうしても手に取る戦争小説。

今年は田中小実昌です。

 

短編集すべて戦争小説というわけではありません。

冒頭表題作、「ポロポロ」は牧師であった父を描いた作品。

直接戦争は関係しません。

ただし、このポロポロがポイント。

 

ポロポロは、懺悔でもなく、祈りでもなく、説教でもお経でもありません。

その実態は作中では明らかにされませんが、信者が集まってポロポロをやります。

 

そしてもう一つのポイントは「物語」。

最終話、「大尾のこと」で繰り返されるように、作者は明らかに戦争体験の「物語化」を避けています。

 

物語は言うまでもなく、文学の根底を成すものです。

人が生きていくうえで、どうにも昇華されなっかった無数のエピソード。

時に「事実」でないことが、「真実」を語ることもありますし、無数の虚偽のエピソードが「真実」にひっくり返ることもあります。

それは一般にいう「うそ」や「作り話」ではありません。

作家は、玉石混淆としたエピソードの澱のようなものから、真実を掬い取ること(真実を伝えられる可能性のある物語を作ること)に長けた人間だということも言えると思います。

 

しかし、この「ポロポロ」は、物語化を拒否するスタンスを取っています。

「真実を語ること」と「真実」はイコールではありません。

言葉は万能ではありませんし、人の口から語られる以上、たとえそれが事実に忠実だったとしても、「物語」性を帯びてしまいます。

それが戦争のような体験の場合なおのことです。

 

表題作「ポロポロ」で一定の距離を置いて書かれていた父の姿。

二編目以降で続く、太平洋戦争末期を舞台にした小説。

終戦後、行軍の途中で見た鏡の前で、筆者は自分の顔に父を見ます。

この場面も淡々と描かれてはいますが、ここが唯一、この短編集で物語を読者に許しているところではないでしょうか。

 

筆者の中に澱のようにたまる、同じ初年兵たちの死。筆者は数々の大小のエピソードに満たされているのです。

ポロポロをやる父を理解できなかった筆者も、ここでおそらくポロポロを理解しています。

いや、ポロポロをせざるを得なくなっています。

 

つまり、この短編集自体が筆者自身のポロポロになっているのです。

 

 

戦争小説としても、リアルで新鮮な箇所がたくさんあります。

無数のステレオタイプな表現にあふれる戦争小説。

だから若い世代にはリアルさが失われ、感想も形骸化しがちです。

 

でも、田中小実昌は、お国のためでもなく、死を覚悟したわけでもない独特のひょうひょうとした人物です。

その人物が語る独特な戦争観。

戦争を全く知らない僕らに、不思議な戦争のリアルさを伝えてくれます。

 

美談でも、悲話でも、ドキュメントでもないポロポロ。

それが田中小実昌の戦争小説。

70年の節目、ぜひどうぞ。