ポロポロ/田中小実昌

 

この時期になるとどうしても手に取る戦争小説。

今年は田中小実昌です。

 

短編集すべて戦争小説というわけではありません。

冒頭表題作、「ポロポロ」は牧師であった父を描いた作品。

直接戦争は関係しません。

ただし、このポロポロがポイント。

 

ポロポロは、懺悔でもなく、祈りでもなく、説教でもお経でもありません。

その実態は作中では明らかにされませんが、信者が集まってポロポロをやります。

 

そしてもう一つのポイントは「物語」。

最終話、「大尾のこと」で繰り返されるように、作者は明らかに戦争体験の「物語化」を避けています。

 

物語は言うまでもなく、文学の根底を成すものです。

人が生きていくうえで、どうにも昇華されなっかった無数のエピソード。

時に「事実」でないことが、「真実」を語ることもありますし、無数の虚偽のエピソードが「真実」にひっくり返ることもあります。

それは一般にいう「うそ」や「作り話」ではありません。

作家は、玉石混淆としたエピソードの澱のようなものから、真実を掬い取ること(真実を伝えられる可能性のある物語を作ること)に長けた人間だということも言えると思います。

 

しかし、この「ポロポロ」は、物語化を拒否するスタンスを取っています。

「真実を語ること」と「真実」はイコールではありません。

言葉は万能ではありませんし、人の口から語られる以上、たとえそれが事実に忠実だったとしても、「物語」性を帯びてしまいます。

それが戦争のような体験の場合なおのことです。

 

表題作「ポロポロ」で一定の距離を置いて書かれていた父の姿。

二編目以降で続く、太平洋戦争末期を舞台にした小説。

終戦後、行軍の途中で見た鏡の前で、筆者は自分の顔に父を見ます。

この場面も淡々と描かれてはいますが、ここが唯一、この短編集で物語を読者に許しているところではないでしょうか。

 

筆者の中に澱のようにたまる、同じ初年兵たちの死。筆者は数々の大小のエピソードに満たされているのです。

ポロポロをやる父を理解できなかった筆者も、ここでおそらくポロポロを理解しています。

いや、ポロポロをせざるを得なくなっています。

 

つまり、この短編集自体が筆者自身のポロポロになっているのです。

 

 

戦争小説としても、リアルで新鮮な箇所がたくさんあります。

無数のステレオタイプな表現にあふれる戦争小説。

だから若い世代にはリアルさが失われ、感想も形骸化しがちです。

 

でも、田中小実昌は、お国のためでもなく、死を覚悟したわけでもない独特のひょうひょうとした人物です。

その人物が語る独特な戦争観。

戦争を全く知らない僕らに、不思議な戦争のリアルさを伝えてくれます。

 

美談でも、悲話でも、ドキュメントでもないポロポロ。

それが田中小実昌の戦争小説。

70年の節目、ぜひどうぞ。