火花/又吉直樹
話題先行とか何やらいわれていた、ピースの又吉さん。
あまりテレビは見ないので本人を詳しく知りませんでしたが、これは本物!
冒頭の数ページ。
「世間」と「僕」の関係が、見事に表現されています。
文体も意識的に一文を長くして、脳内の苛立ちと孤独が分かりやすく伝わってきます。
この数ページで、ネット等でも言われていた出来レースなどの疑念は払拭。
もし、そういった理由で敬遠している人がいたらもったいない!
100%純文学。
まずは先入観を抜きにして手に取ってください。
さて、
火花は、一言で言えば、「僕」対「世間」の物語です。
漫才師は、人を笑わせること、人に認められることが至上命題です。
では、ここで言う「人」とは?
それは漠然とした、きわめてあいまいな「一般の人」、いわゆる「世間」です。
異物感を抱えて生きる「僕」と対峙する「世間」。
そう、実はテーマは純文学の王道なのです。
頭の中で面白いと思っていることと、人前で面白いと思わせることは違います。
普通とずれているのがお笑い、でもずれすぎては笑いが分からない。
いくら頭の中で考えていることが突飛でも、それを世間に伝えるには技術がいります。
そもそも人は、「ずれている」ところ、「人と違う」ところで笑うのではありません。
一見「ずれている」ところが自分の中に潜む何かと共鳴しあって、初めて人は笑うのです。
だから、人と異なっているだけ、ずれているだけでは面白くない。
もちろん、ずれているところがなければ面白くない。
大事なのは、その兼ね合い。
お笑いとは、コミュニケーションなのです。
では、なぜわざわざ漫才師を目指すのか。
それは、彼らのコミュニケーションの欲求です(少なくとも、僕徳永と神谷さん)。
世間とそもそも相容れない彼らが、お笑いを通して(それしか手段がない)、世間とのコミュニケーションを試みているのです。
つまり、人とずれているところが出発点であり、それが面白さの源。
でもそのずれを見せているだけでは面白くない(そのずれが元から世間にはまっている例が鹿谷)。
ずれを世間に通じるよう、すり寄っていく。
自分の頭の中では、頭の中で考えていることが一番面白い。
世間にすり寄っていくから、自分の頭の中では面白くなくなっていく。
すると、世間は自然に敵対するものへとなっていくのです。
ここからネタバレ少しあるのでご注意!
コミュニケーションの欲望とそれが受け入れられないことへの絶望。
(一義的には人を笑わせられないということ)
冒頭の「花火」のシーン。
観客との一方通行の漫才ですらない漫才は、まさに観客と「火花」を散らしています。
一転してラスト近くの「花火」のシーン。
徳永と神谷は「観客」として「花火」を見ています。
(「火花」から「花火」へ、世界が逆転しています(世界を覆す漫才))
企業スポンサーの派手な花火に紛れて、一般男性提供の告白メッセージを伴う花火が打ちあがります。
「愛の告白を花火を通してする」、これは表現者のもっとも忌み嫌うありきたりな行為。
世間ど真ん中、究極のステレオタイプです。
ところがこの花火、スポンサーが一般男性だからしょぼい。
かっこいいことがしたいのに、非日常を演出したいのに、想像を絶するしょぼさ。
この落差は「ずれ」。
笑うべきお笑いの対象です。
でも、世間の反応は違います。
その日一番かという大きな拍手が、花火を盛り立てます。
そして、徳永と神谷の二人も手が赤くなるほどの拍手を送ります。
これが「世間」、「人」。
もうすでに2人は気づいています。
「世間」は決して「火花」を散らすべき敵対するものではないということ。
「世間」におもねることは絶対に答えではありませんが、その「世間」の中から愛すべきお笑いが生まれること。
異物感を抱えながら、「世間」とかかわっていくことでコミュニケーションが生まれること。
つまり、
人が生きていくこと、それ自体がそのまま漫才、コミュニケーションなのです。
小難しく書いてしまいましたが、
純文学初めて!という方、中高生の方、解釈はそれぞれ。
いや、解釈も必要ないかもしれません。
でも、どこか面白いな、と感じたら、自分なりに突き詰めてみると小説の世界が広がります。
ストーリーはただのいれもの(重要ないれものですが!)。
その中身を感じて、新しい世界を広げてください!
今回、久々に文藝春秋で読みました!
羽田圭介も読めますよ。