読書の町宣言! 武蔵丸/車谷長吉

武蔵丸/車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)

 

今年5月17日、作家の訃報。

積読本にあった武蔵丸を読了です。

※つんどくぼんは買ったまま読まずに積み上がっている本の俗称^^;

 

車谷長吉は、この世代には珍しい私小説と呼ばれるジャンルに分類されることがある作家。

私小説作家と言えば太宰治が代表ですが、私生活をそのまま小説にするというわけではありません。

そこに創作の要素は当然たくさん入り込んでいます。

また、モノローグ、独白の文学と呼ばれることもある私小説ですが、これも客観的な視点を持ちながら「私小説」は書かれると思います。

素人の書くものならいざ知らず、一般的な定義からすれば面白いものではない私小説を文学の域にまで押し上げるには、やはり創作の才能と鋭敏な感覚、独りよがりに陥らない客観的な視点が不可欠です。

 

さて、本作は短編集。

どこまでが本当の私生活で、どこが創作かという視点は正しくありません。

私生活の中で、どこにポイントを見つけ(突破口を見出し)、「事実よりもよりリアルな事実が書けるか」。

実際に起こった事実に真実を感じ、その真実をより伝えるための最善な方法を探っていくわけです。

例えば近年の村上春樹は荒唐無稽でリアルでないという方も多いですが、リアルを伝えるための創作と創造があり、それが現実を超えることを試みているわけです。

一般に読み手は書かれてあることをすべてととらえがちです。

私小説であれなんであれ、小説によって提出されたのは作家の現実です。

読み手にとっては、その意味で私小説でも小説でも違いはありません。

 

で、

この武蔵丸ですが、間違いなくここに真実が書かれてあると感じました。

一編目の「白痴群」が一番読み応えがありましたが、個人的に好きなのは表題作の「武蔵丸」。

え、相撲取り?

書くとネタバレになってしまうので黙っておきます^_^

 


 

 

読書の町宣言! ノーライフキング/いとうせいこう

ノーライフキング/いとうせいこう

 

80年代後半、ちょうどファミコンが子どもの世界に定着した頃の発表です。

 

「ライフキング」はゲームソフト。

子どもだけが知る裏ワザ、情報。

それが広まる独自のネットワーク。

そのネットワークの中で、「ノー」ライフキングは生まれ、巨大化していきます。

 

子どもと大人の対比として語られることが多いようですが、たとえば「大人はわかってくれない」というようなことが書かれているわけではありません。

まず前提として、「私たちが生きているこの世界に現実感(リアル)を感じられるか」というのが共通の問題意識になっています。

そこに大人も子どももありません。

 

「マスコミ」によって、いとも簡単に「リアル」がひっくり返ってしまう人々。

「マスコミ」は「大多数」の人々と言い換えてもいいと思います。

つまり、「マスコミ」によってリアルが形成されている人々、そこに疑いを持たない人々です。

好き嫌いの問題ではありません。

例えば、まことの母、水田、テレビタレント。

 

一方、まことを中心とした子どもたちのうわさは、「マスコミ」によって報道(消費)されたとたんに、価値を失い、次のうわさへと飛びます。

子どものコミュニティーで「リアルさ」を持っていたものが、「マスコミ」に報道されたとたんに、「リアルさ」を失ってしまうのです。

これも大人がリアルでなくて、子どもがリアルだということではありません。

事実、子どもの側にあるのも「リアルさ」であって、本当の「現実感(リアル)」はないのです。

 

でも、子ども側は「リアル」を求めています。

一見現実とは程遠いゲームにも「リアル」を探します。

 

そして、ターニングポイントは「死」の意識。

主人公が、「死」を意識したとき、「まわりをうかがい」だします。

まわりは現実。

そして、まわりをうかがいだした主人公は、何度も「くるりくるり」と方向転換をします。

そう、ゲームに現実が宿った瞬間です。

 

もちろんゲームに現実があるといっているわけではありません。

でも、現実感を失った世界に生きている私たち。

リアルを求める心があれば、それはゲームのような無機質なものの中に宿ることがあるのかもしれません。

 

子どもたちは、現実を知り、また何事もなかったように元に戻っていきます。

「非現実」から「現実」へではありません。

「現実を垣間見た瞬間」から、「現実感を感じられない日常」へ。

 

時代がずれていて読めないという意見もあるようですが、本作には塾でのコンピューター装置で「つながる」システムが登場します。

これがネットと同じ、決定的な役割を果たしています。

本質は現在も変わりません。

 

中学生以上なら行けます!

どうぞ。

 

読書の町宣言! 群棲/黒井千次

群棲/黒井千次

黒井千次(くろいせんじ)の代表作「群棲(ぐんせい)」。

群棲、路地を挟んで向かい合う四軒の家をめぐる連作です。

※連作とは、共通のテーマを持つ短編が、全体でひとつの作品を取る形です。

 

時代は80年代。

核家族化が進み、それまでの家族観が変わっていく時代です。

 

「家」は文学上の重要ワード。

戦前からのいわゆる「家」は当然崩壊しています。

本作に登場する織田家は核家族、安永家は祖母と夫婦と子、滝川家は子供の独立した夫婦、木内家は若い夫婦世帯。

いずれもが、新しい「家」が自分たちの居場所であるかどうかに懐疑的であり、程度の差はありますが、各家庭内でなんらかの問題を抱えています。

程度の差とは、客観的な差であり、当人たちにとっては幸せの尺度とはなりません。

共通しているのはやはり、「自分の居場所がここでいいのだろうか」という漠然とした居心地の悪さです。

「自分の居場所はここではない」、「自分の居場所探し」ではありません。

「ここでいいのだろうか」という「不安、懐疑」です。

 

その不安ですが、描き方が実に見事です。

自然で、暗喩が的確です。

※暗喩(メタファー)とは、「まるで」や「ような」を使わずにたとえを表現することです。

小説(文学)では、ストーリー自体にメタファーを組み込むことがあります。

(作家の意図していない時もあります)

 

ネタバレのない参考程度に、暗喩に満ちた設定、キーフレーズを記しておきます。

 

・以前の家の上に(井戸の上に)新築の家を建てる。

・以前の自分の住んでいた家の面影を必死で伝えようとする。

・庭に離れに親を呼び寄せようとする

・井戸の水が家を沈める

・古い電気スタンドを購入する

・切られた桜の木

・古い家に2階を足す

・老人の記憶錯綜

・庭の芝生

・鉄の門扉

などなど。

 

 

なぜそんな不満な生活から彼ららは出ていかないのか?

 

象徴的なラストでの紀代子のセリフ

~「約束を破ってでもお出になれる方は、素敵ですわ」

 

いい、悪い。こうすればいい。

小説は生き方の示唆ではありません。

見事に80年代の4軒の家、つまり80年代の日本の家を描き出しています。

 

ちなみに僕はこの小説で言うと、織田家の子どもたち(小学生)の世代。

井戸の上に家を建てているにもかかわらず、放課後の家に入れず近所から水泥棒をする姿が描かれていました。

上の世代へのぼんやりとした違和感と敵意。

なるほど。

高校生以上の皆さん、どうぞ(‘◇’)ゞ

 

読書の町宣言! スロー・ラーナー/トマス・ピンチョン

学生時代、大手本屋さんに行っても入手できなかったピンチョン。

が文庫版がいつの間にか復刊!

覆面作家、寡作としても有名だったピンチョンも2000年代に入ってから活動を活発化。

その流れもあるんでしょうか。

 

古本にしても、入手困難だった本が割に簡単に手に入ってしまう時代。

読書家にとってはいい時代になりました、町の本屋さんは大変かもしれませんが(´・ω・`)

 

さて、難解で知られるピンチョン。

やはり難解でしたっ!

 

本作は初期の短編集ですが、「秘密裡に」などは解説がないとちょっと厳しい!

でも、ストーリーに翻弄されるのは作家の本意ではないはず。

なのでこれから読む皆さんは、解説を最初に読んでしまうのも手かもしれません。

ちくま文庫版の解説には、訳者志村正雄氏のていねい、かつネタバレの少ない解説があります。

ストーリーの補完ですから、読書の邪魔はしません。

まず解説を読んでしまいましょう^^;

 

5,6割の理解なのですが、簡単に感想を。

一貫して出てくるのが、落下、低地、落ちる、踏み外す等々の表現。

今いる場所の不安定さ、不確かさ、一見安定しているように見えるものに潜む落下の可能性、イメージが各短編で展開されています。

 

具体的な地位からの落下を意味するのではなく、誰もが漠然と知っている落下、眼下の暗闇のイメージです。

落下した位置からの文学、今にも落下しそうなへりを伝い歩く文学、落下した底からのメッセージを伝える文学。

そのテーマ自体は文学の王道とも言えますが、そのイメージの伝え方が難解、しかし鮮烈。

 

分からない作品もまた味。

もうちょっと枕元に置いておいて、考えてみます^_^

 

読書の町宣言! もし僕らのことばがウイスキーであったなら/村上春樹

NHK「マッサン」ブームで、すっかりウイスキー復権。

私もここ数年、ビールから焼酎、ウイスキーにシフト。

 

特にウイスキーのおいしさに目覚めたのは、ここ数年。

そういえば、といまいちピンと来なかった、村上春樹のウイスキーエッセイを引っ張り出して再読しました。

 

もし僕らのことばがウイスキーであったなら/村上春樹

 

エッセイは基本的にスコットランドおよびアイルランドのシングルモルトについて。

このあたりの用語の分かりにくさが、ウイスキーの人気が他に比べ落ちていた原因でしょう。

 

生半可な知識ですが、

ブレンディッド・ウイスキーが、大麦(モルト)とその他のトウモロコシなどの穀類(グレーン)をブレンドしたもの。

ピュアモルト・ウイスキーが、大麦のみで作ったもの。複数の醸造所の原酒をブレンド。

シングルモルト・ウイスキーが、ピュアモルトのうち、一つの醸造所の原酒で作ったウイスキー。

 

なお、以上はスコッチ・ウイスキー。

(バーボンは、逆にトウモロコシの比率が高くなるアメリカ独特のウイスキー。

ジム・ビーム、フォア・ローゼズ、ワイルド・ターキーなどがメジャーどころ。)

 

村上春樹が訪れたのは、スコットランドアイラ島(イギリス)とアイルランドですので、スコッチの方です。マッサンももちろんこっち。

村上春樹は前作読んでいますが、お酒と言えばビールとウイスキー。

でも、食べ物とセットのイメージ。

今作も、おいしそうな生ガキの話が出てきますが、基本的にウイスキーだけでもっていきます。

 

あとはタイトル通り、

僕らのことばがウイスキーであったなら…

というわけで、

ニッカの原点である本場スコットランドのウイスキー。

卒業生、保護者のみなさま、偶然訪れた大人のみなさまは実際に味わってみてください。

生徒の皆さんは、二十歳になった時に、ゆっくり味わってください。

こちら、シングルモルトウイスキー。
ちょっと値がはります。

ただ、必ずしもシングルモルトにこだわる必要はありません。

ブレンディッドの方が飲みやすく、食事には合うと言えると思います。

こちらはブレンディッドのスコッチ。
価格も手頃です。


ちなみにマッサンの目指してたハイランドケルト?はおそらくこれ。

ハイランドパーク。

本の紹介でなく、ウイスキーの紹介になってしまいました^^;、ガイドの一端にどうぞ。

読書の町宣言!石の肺/佐伯一麦

佐伯一麦(さえきかずみ)のルポ、「石の肺~僕のアスベスト履歴書」です。

 

佐伯一麦と言えば、ア・ルース・ボーイ!

青春文学の金字塔。

進学校の退学。赤ん坊。仕事と生活。

まだバブルの余韻の残る僕の高校時代、真摯に生きること、まっとうに生きることを教えてくれた名著です。

 

上記のア・ルース・ボーイはじめ、著作のほとんどは私小説の形式。

創作にあたって多少の脚色はあるものの、佐伯氏自身の歩みが作品の軸になっています。

 

佐伯さんはドロップアウトしてから、専業作家になるまで主に電気工として生計を立てていました。

今でこそアスベストむき出しの中で作業するなどとんでもないことですが、当時はそういった条件の仕事が危険性の認識もないままたくさんあったようです。

佐伯さんも電気工事の際のアスベストの被害者。

ビル天井の狭い中でアスベスト吹き付け現場の電気工事をやったことが、現在まで影響しているのです。

ぜんそくと肋膜炎、そして肺がんへの怯え。

 

で、アスベスト被害のルポタージュなのですが、ノンフィクションにありがちな国や企業への糾弾、正義を振りかざすことはまったくありません。

淡々と、冷静に、時に愛情さえ感じさせるほど、当時の状況を振り返ります。

 

文中にもありますが、アスベストのおかげで発展もあった、その一面も彼は見逃していません。

もっと言えば、みな、アスベストを含む「社会悪」に目をつぶりつつ、恩恵を享受してきたでしょう?というスタンスかと思います。

繰り返しますが、糾弾ではありません。

言うべきことは厳しく主張しますが、必要以上に正義をかざさない。

 

3丁目の夕日の話がちょっと否定的に出てくるのですが、もしかしたら「石の肺」は80年代のウラ三丁目の夕日なのかもしれません。

アスベスト被害について知りたい人はもちろん、時代の空気の匂い立つ文学作品としてもどうぞ。

 

読書の町宣言!うるわしき日々/小島信夫

久々に読んだ本をアップ。

小島信夫/うるわしき日々

小島信夫と言えば、「抱擁家族」。

小島信夫を抜きにして、日本文学は語れません。

 

その続編ともいわれるこの「うるわしき日々」。

「抱擁家族」は学生時代のバイブルと言っていいくらい、勉強した本。

勇んで読みましたが…結構難解(´・ω・`)

 

「抱擁家族」より、時代は複雑化し、現代化、個人化は進みます。

止まることのない雨漏りをふさぐように、守るべきものがあるかどうかさえ不確かなまま、互いに「抱擁」を試みる「抱擁家族」。

ストーリー、ピンとこない方はこちら。ネタバレ注意。

抱擁家族 amazon

 

抱擁家族の時代は1965年。

うるわしき日々は1997年。

実に30年。

 

私小説に近い形で、主人公三輪俊介を描く小島はすでに80代。

アル中の俊介、記憶の飛ぶ妻、かすかな断片をつなぎ合わせる老作家。

 

あまりに深刻な状況、でもどこか軽妙。

そのバランスは晩年の小島でも健在。

 

救い、結論は描かれていません。

いや、流れるような抑揚のないストーリーの中に作者は見出しているのかもしれません。

 

結論めいたものがあるとすれば、

終盤、保坂和志と思しき作家が猫について語るエピソード。

 

~死んだネコが、いつも通っていた道筋の空気が揺れていたのは、ネコ自身のことであるけれども、それを感じているのは僕だけだ~

それを受けて、三輪俊介に姿を借りた小島は、

~ペットを思う人はみなそのような個人的な思いをもつのだろうか。その個人的思いこそ大事だと思っているのだろうか。

 

ずっしりと、あとからヘビーになってくる小説です。

「抱擁家族」をとりあえず読んでから、みなさんどうぞ。

「抱擁家族」、ならびに庄野潤三「夕べの雲」は、江藤淳の評論「成熟と喪失」とセットで。

小説好きの方、文学部および社会学部の方は必読(‘ω’)ノ