私立高校受験‐茨城高校・水城高校

先日、中3の保護者面談でお話した内容です。

 

近年、水戸市内の私立高校もだいぶ様変わりしてきました。

少子化対策として、入試形式もほとんどが県立模試型の五教科にシフト。

受験生にとっては、特に対策をしなくても結果が出やすいので、受験しやすい形式です。

県立模試型‐ 水戸啓明、水戸葵陵、大成女子(3科別日程)、常磐大学(3科選択あり)、茨城キリスト、明秀日立

 

 

独自問題の水城と茨高

 

一方、独自路線を貫いているのが、表題の茨城高校と水城です。

偏差値的にもこの2校は滑り止めになりにくいところがありますので、注意が必要です。

 

二校は出題形式も独自路線、さらに問題の難易度が高めです。

ですから、普段の茨統テストで65の偏差値を取れているからと言って茨高は確実ではありませんし、水城では思ったような特待コースに合格できないこともあるのです。

 

茨城高校

 

○茨高は言わずと知れた県内私立の雄。

募集人員自体も、中高一貫の生徒が160名。

高校部での募集は80名の枠しかありません。

偏差値は茨統でおよそ65。

入試問題は地区一の難易度です。

茨高は偏差値60超の生徒しか受験しませんので、難易度も容赦なく上げられるのです。

ただ平均点ももちろん下がりますので、水戸一を目指す生徒であればそう構える必要はありませんが、それでもしっかり過去問を解いて臨まないと思ったような結果が出ないこともあります。

 

 

 

 

水城高校

 

○水城は、県内一のマンモス高。
偏差値45程度(Aコース)から70程度のZコースまで非常に幅があります(Bコースは現在スポーツ推薦用のクラス)。

他の私立も細かいコース分けがありますが、例えば入学後は特待クラスを1~2クラスの編成にしてレベルの異なる特待の生徒が同居する状態になるところがほとんどです(特待と準特待が一緒のクラス、S1とS2が同じなど)。

しかし、水城はZクラスだけでも複数クラス。

同じくらいのレベルの生徒だけでクラスが編成できる強みがあります。

 

しかし、

その中で、およそ偏差値45(Aコース)から偏差値70程度(Zコース)の生徒までに幅広く対応した問題を作成しなければなりませんので、難易度の高い問題を含めざるを得ません。

Aコース志望の生徒が難問を解く必要はありませんが、多くの問題の中から基本問題を探して着実に得点していくというのは案外難しい作業です。

また、ここ数年は以前と比べて解きやすい問題が増えてきたと言われますが、それでも現在の中学生たちには解き慣れない難問と感じてしまうようです。

 

ですから、偏差値50未満の生徒、学び舎の生徒であれば育伸社のテストで大きく成績を下げてしまう生徒(育伸社テストが水城のテストに近いわけではありませんが、解きなれない形式の一歩踏み込んだ問題の多いテストという共通点があります)は、水城のみの受験は避けたほうがいいと思います。

水城+県立模試型の2本立てにするのが安心です。

 


 

読書の町宣言! 火花/又吉直樹

火花/又吉直樹

話題先行とか何やらいわれていた、ピースの又吉さん。

あまりテレビは見ないので本人を詳しく知りませんでしたが、これは本物!

冒頭の数ページ。

「世間」と「僕」の関係が、見事に表現されています。

文体も意識的に一文を長くして、脳内の苛立ちと孤独が分かりやすく伝わってきます。

この数ページで、ネット等でも言われていた出来レースなどの疑念は払拭。

もし、そういった理由で敬遠している人がいたらもったいない!

100%純文学。

まずは先入観を抜きにして手に取ってください。

 

さて、

火花は、一言で言えば、「僕」対「世間」の物語です。

漫才師は、人を笑わせること、人に認められることが至上命題です。

では、ここで言う「人」とは?

それは漠然とした、きわめてあいまいな「一般の人」、いわゆる「世間」です。

異物感を抱えて生きる「僕」と対峙する「世間」。

そう、実はテーマは純文学の王道なのです。

 

頭の中で面白いと思っていることと、人前で面白いと思わせることは違います。

普通とずれているのがお笑い、でもずれすぎては笑いが分からない。

いくら頭の中で考えていることが突飛でも、それを世間に伝えるには技術がいります。

そもそも人は、「ずれている」ところ、「人と違う」ところで笑うのではありません。

一見「ずれている」ところが自分の中に潜む何かと共鳴しあって、初めて人は笑うのです。

だから、人と異なっているだけ、ずれているだけでは面白くない。

もちろん、ずれているところがなければ面白くない。

 

大事なのは、その兼ね合い。

お笑いとは、コミュニケーションなのです。

では、なぜわざわざ漫才師を目指すのか。

それは、彼らのコミュニケーションの欲求です(少なくとも、僕徳永と神谷さん)。

世間とそもそも相容れない彼らが、お笑いを通して(それしか手段がない)、世間とのコミュニケーションを試みているのです。

 

つまり、人とずれているところが出発点であり、それが面白さの源。

でもそのずれを見せているだけでは面白くない(そのずれが元から世間にはまっている例が鹿谷)。

ずれを世間に通じるよう、すり寄っていく。

自分の頭の中では、頭の中で考えていることが一番面白い。

世間にすり寄っていくから、自分の頭の中では面白くなくなっていく。

すると、世間は自然に敵対するものへとなっていくのです。

 

ここからネタバレ少しあるのでご注意!

 

 

コミュニケーションの欲望とそれが受け入れられないことへの絶望。

(一義的には人を笑わせられないということ)

冒頭の「花火」のシーン。

観客との一方通行の漫才ですらない漫才は、まさに観客と「火花」を散らしています。

 

一転してラスト近くの「花火」のシーン。

徳永と神谷は「観客」として「花火」を見ています。

(「火花」から「花火」へ、世界が逆転しています(世界を覆す漫才))

企業スポンサーの派手な花火に紛れて、一般男性提供の告白メッセージを伴う花火が打ちあがります。

「愛の告白を花火を通してする」、これは表現者のもっとも忌み嫌うありきたりな行為。

世間ど真ん中、究極のステレオタイプです。

ところがこの花火、スポンサーが一般男性だからしょぼい。

かっこいいことがしたいのに、非日常を演出したいのに、想像を絶するしょぼさ。

この落差は「ずれ」。

笑うべきお笑いの対象です。

でも、世間の反応は違います。

その日一番かという大きな拍手が、花火を盛り立てます。

そして、徳永と神谷の二人も手が赤くなるほどの拍手を送ります。

これが「世間」、「人」。

 

もうすでに2人は気づいています。

「世間」は決して「火花」を散らすべき敵対するものではないということ。

「世間」におもねることは絶対に答えではありませんが、その「世間」の中から愛すべきお笑いが生まれること。

異物感を抱えながら、「世間」とかかわっていくことでコミュニケーションが生まれること。

つまり、

人が生きていくこと、それ自体がそのまま漫才、コミュニケーションなのです。

 

小難しく書いてしまいましたが、

純文学初めて!という方、中高生の方、解釈はそれぞれ。

いや、解釈も必要ないかもしれません。

でも、どこか面白いな、と感じたら、自分なりに突き詰めてみると小説の世界が広がります。

ストーリーはただのいれもの(重要ないれものですが!)。

その中身を感じて、新しい世界を広げてください!

今回、久々に文藝春秋で読みました!
羽田圭介も読めますよ。

 

10月10日は英検日です!

10月10日(土)は英検日です。

5級から2級まで、学び舎で受験可能です。

地域で気軽に検定を受けられる場所を提供しようと、学び舎負担で運営を続けております。

教室外生の方も、どうぞお気軽にお問い合わせください。

 

お申込み締め切り 9月15日(火)

お申し込み方法 お申し込み用紙を提出、またはメール、ファックスでも構いません。

お申し込み用紙、実施詳細はこちら

読書の町宣言! ポロポロ/田中小実昌

ポロポロ/田中小実昌

 

この時期になるとどうしても手に取る戦争小説。

今年は田中小実昌です。

 

短編集すべて戦争小説というわけではありません。

冒頭表題作、「ポロポロ」は牧師であった父を描いた作品。

直接戦争は関係しません。

ただし、このポロポロがポイント。

 

ポロポロは、懺悔でもなく、祈りでもなく、説教でもお経でもありません。

その実態は作中では明らかにされませんが、信者が集まってポロポロをやります。

 

そしてもう一つのポイントは「物語」。

最終話、「大尾のこと」で繰り返されるように、作者は明らかに戦争体験の「物語化」を避けています。

 

物語は言うまでもなく、文学の根底を成すものです。

人が生きていくうえで、どうにも昇華されなっかった無数のエピソード。

時に「事実」でないことが、「真実」を語ることもありますし、無数の虚偽のエピソードが「真実」にひっくり返ることもあります。

それは一般にいう「うそ」や「作り話」ではありません。

作家は、玉石混淆としたエピソードの澱のようなものから、真実を掬い取ること(真実を伝えられる可能性のある物語を作ること)に長けた人間だということも言えると思います。

 

しかし、この「ポロポロ」は、物語化を拒否するスタンスを取っています。

「真実を語ること」と「真実」はイコールではありません。

言葉は万能ではありませんし、人の口から語られる以上、たとえそれが事実に忠実だったとしても、「物語」性を帯びてしまいます。

それが戦争のような体験の場合なおのことです。

 

表題作「ポロポロ」で一定の距離を置いて書かれていた父の姿。

二編目以降で続く、太平洋戦争末期を舞台にした小説。

終戦後、行軍の途中で見た鏡の前で、筆者は自分の顔に父を見ます。

この場面も淡々と描かれてはいますが、ここが唯一、この短編集で物語を読者に許しているところではないでしょうか。

 

筆者の中に澱のようにたまる、同じ初年兵たちの死。筆者は数々の大小のエピソードに満たされているのです。

ポロポロをやる父を理解できなかった筆者も、ここでおそらくポロポロを理解しています。

いや、ポロポロをせざるを得なくなっています。

 

つまり、この短編集自体が筆者自身のポロポロになっているのです。

 

 

戦争小説としても、リアルで新鮮な箇所がたくさんあります。

無数のステレオタイプな表現にあふれる戦争小説。

だから若い世代にはリアルさが失われ、感想も形骸化しがちです。

 

でも、田中小実昌は、お国のためでもなく、死を覚悟したわけでもない独特のひょうひょうとした人物です。

その人物が語る独特な戦争観。

戦争を全く知らない僕らに、不思議な戦争のリアルさを伝えてくれます。

 

美談でも、悲話でも、ドキュメントでもないポロポロ。

それが田中小実昌の戦争小説。

70年の節目、ぜひどうぞ。

 

 

読書の町宣言! 武蔵丸/車谷長吉

武蔵丸/車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)

 

今年5月17日、作家の訃報。

積読本にあった武蔵丸を読了です。

※つんどくぼんは買ったまま読まずに積み上がっている本の俗称^^;

 

車谷長吉は、この世代には珍しい私小説と呼ばれるジャンルに分類されることがある作家。

私小説作家と言えば太宰治が代表ですが、私生活をそのまま小説にするというわけではありません。

そこに創作の要素は当然たくさん入り込んでいます。

また、モノローグ、独白の文学と呼ばれることもある私小説ですが、これも客観的な視点を持ちながら「私小説」は書かれると思います。

素人の書くものならいざ知らず、一般的な定義からすれば面白いものではない私小説を文学の域にまで押し上げるには、やはり創作の才能と鋭敏な感覚、独りよがりに陥らない客観的な視点が不可欠です。

 

さて、本作は短編集。

どこまでが本当の私生活で、どこが創作かという視点は正しくありません。

私生活の中で、どこにポイントを見つけ(突破口を見出し)、「事実よりもよりリアルな事実が書けるか」。

実際に起こった事実に真実を感じ、その真実をより伝えるための最善な方法を探っていくわけです。

例えば近年の村上春樹は荒唐無稽でリアルでないという方も多いですが、リアルを伝えるための創作と創造があり、それが現実を超えることを試みているわけです。

一般に読み手は書かれてあることをすべてととらえがちです。

私小説であれなんであれ、小説によって提出されたのは作家の現実です。

読み手にとっては、その意味で私小説でも小説でも違いはありません。

 

で、

この武蔵丸ですが、間違いなくここに真実が書かれてあると感じました。

一編目の「白痴群」が一番読み応えがありましたが、個人的に好きなのは表題作の「武蔵丸」。

え、相撲取り?

書くとネタバレになってしまうので黙っておきます^_^

 


 

 

読書の町宣言! ノーライフキング/いとうせいこう

ノーライフキング/いとうせいこう

 

80年代後半、ちょうどファミコンが子どもの世界に定着した頃の発表です。

 

「ライフキング」はゲームソフト。

子どもだけが知る裏ワザ、情報。

それが広まる独自のネットワーク。

そのネットワークの中で、「ノー」ライフキングは生まれ、巨大化していきます。

 

子どもと大人の対比として語られることが多いようですが、たとえば「大人はわかってくれない」というようなことが書かれているわけではありません。

まず前提として、「私たちが生きているこの世界に現実感(リアル)を感じられるか」というのが共通の問題意識になっています。

そこに大人も子どももありません。

 

「マスコミ」によって、いとも簡単に「リアル」がひっくり返ってしまう人々。

「マスコミ」は「大多数」の人々と言い換えてもいいと思います。

つまり、「マスコミ」によってリアルが形成されている人々、そこに疑いを持たない人々です。

好き嫌いの問題ではありません。

例えば、まことの母、水田、テレビタレント。

 

一方、まことを中心とした子どもたちのうわさは、「マスコミ」によって報道(消費)されたとたんに、価値を失い、次のうわさへと飛びます。

子どものコミュニティーで「リアルさ」を持っていたものが、「マスコミ」に報道されたとたんに、「リアルさ」を失ってしまうのです。

これも大人がリアルでなくて、子どもがリアルだということではありません。

事実、子どもの側にあるのも「リアルさ」であって、本当の「現実感(リアル)」はないのです。

 

でも、子ども側は「リアル」を求めています。

一見現実とは程遠いゲームにも「リアル」を探します。

 

そして、ターニングポイントは「死」の意識。

主人公が、「死」を意識したとき、「まわりをうかがい」だします。

まわりは現実。

そして、まわりをうかがいだした主人公は、何度も「くるりくるり」と方向転換をします。

そう、ゲームに現実が宿った瞬間です。

 

もちろんゲームに現実があるといっているわけではありません。

でも、現実感を失った世界に生きている私たち。

リアルを求める心があれば、それはゲームのような無機質なものの中に宿ることがあるのかもしれません。

 

子どもたちは、現実を知り、また何事もなかったように元に戻っていきます。

「非現実」から「現実」へではありません。

「現実を垣間見た瞬間」から、「現実感を感じられない日常」へ。

 

時代がずれていて読めないという意見もあるようですが、本作には塾でのコンピューター装置で「つながる」システムが登場します。

これがネットと同じ、決定的な役割を果たしています。

本質は現在も変わりません。

 

中学生以上なら行けます!

どうぞ。

 

読書の町宣言! 群棲/黒井千次

群棲/黒井千次

黒井千次(くろいせんじ)の代表作「群棲(ぐんせい)」。

群棲、路地を挟んで向かい合う四軒の家をめぐる連作です。

※連作とは、共通のテーマを持つ短編が、全体でひとつの作品を取る形です。

 

時代は80年代。

核家族化が進み、それまでの家族観が変わっていく時代です。

 

「家」は文学上の重要ワード。

戦前からのいわゆる「家」は当然崩壊しています。

本作に登場する織田家は核家族、安永家は祖母と夫婦と子、滝川家は子供の独立した夫婦、木内家は若い夫婦世帯。

いずれもが、新しい「家」が自分たちの居場所であるかどうかに懐疑的であり、程度の差はありますが、各家庭内でなんらかの問題を抱えています。

程度の差とは、客観的な差であり、当人たちにとっては幸せの尺度とはなりません。

共通しているのはやはり、「自分の居場所がここでいいのだろうか」という漠然とした居心地の悪さです。

「自分の居場所はここではない」、「自分の居場所探し」ではありません。

「ここでいいのだろうか」という「不安、懐疑」です。

 

その不安ですが、描き方が実に見事です。

自然で、暗喩が的確です。

※暗喩(メタファー)とは、「まるで」や「ような」を使わずにたとえを表現することです。

小説(文学)では、ストーリー自体にメタファーを組み込むことがあります。

(作家の意図していない時もあります)

 

ネタバレのない参考程度に、暗喩に満ちた設定、キーフレーズを記しておきます。

 

・以前の家の上に(井戸の上に)新築の家を建てる。

・以前の自分の住んでいた家の面影を必死で伝えようとする。

・庭に離れに親を呼び寄せようとする

・井戸の水が家を沈める

・古い電気スタンドを購入する

・切られた桜の木

・古い家に2階を足す

・老人の記憶錯綜

・庭の芝生

・鉄の門扉

などなど。

 

 

なぜそんな不満な生活から彼ららは出ていかないのか?

 

象徴的なラストでの紀代子のセリフ

~「約束を破ってでもお出になれる方は、素敵ですわ」

 

いい、悪い。こうすればいい。

小説は生き方の示唆ではありません。

見事に80年代の4軒の家、つまり80年代の日本の家を描き出しています。

 

ちなみに僕はこの小説で言うと、織田家の子どもたち(小学生)の世代。

井戸の上に家を建てているにもかかわらず、放課後の家に入れず近所から水泥棒をする姿が描かれていました。

上の世代へのぼんやりとした違和感と敵意。

なるほど。

高校生以上の皆さん、どうぞ(‘◇’)ゞ

 

読書の町宣言! スロー・ラーナー/トマス・ピンチョン

学生時代、大手本屋さんに行っても入手できなかったピンチョン。

が文庫版がいつの間にか復刊!

覆面作家、寡作としても有名だったピンチョンも2000年代に入ってから活動を活発化。

その流れもあるんでしょうか。

 

古本にしても、入手困難だった本が割に簡単に手に入ってしまう時代。

読書家にとってはいい時代になりました、町の本屋さんは大変かもしれませんが(´・ω・`)

 

さて、難解で知られるピンチョン。

やはり難解でしたっ!

 

本作は初期の短編集ですが、「秘密裡に」などは解説がないとちょっと厳しい!

でも、ストーリーに翻弄されるのは作家の本意ではないはず。

なのでこれから読む皆さんは、解説を最初に読んでしまうのも手かもしれません。

ちくま文庫版の解説には、訳者志村正雄氏のていねい、かつネタバレの少ない解説があります。

ストーリーの補完ですから、読書の邪魔はしません。

まず解説を読んでしまいましょう^^;

 

5,6割の理解なのですが、簡単に感想を。

一貫して出てくるのが、落下、低地、落ちる、踏み外す等々の表現。

今いる場所の不安定さ、不確かさ、一見安定しているように見えるものに潜む落下の可能性、イメージが各短編で展開されています。

 

具体的な地位からの落下を意味するのではなく、誰もが漠然と知っている落下、眼下の暗闇のイメージです。

落下した位置からの文学、今にも落下しそうなへりを伝い歩く文学、落下した底からのメッセージを伝える文学。

そのテーマ自体は文学の王道とも言えますが、そのイメージの伝え方が難解、しかし鮮烈。

 

分からない作品もまた味。

もうちょっと枕元に置いておいて、考えてみます^_^

 

読書の町宣言! もし僕らのことばがウイスキーであったなら/村上春樹

NHK「マッサン」ブームで、すっかりウイスキー復権。

私もここ数年、ビールから焼酎、ウイスキーにシフト。

 

特にウイスキーのおいしさに目覚めたのは、ここ数年。

そういえば、といまいちピンと来なかった、村上春樹のウイスキーエッセイを引っ張り出して再読しました。

 

もし僕らのことばがウイスキーであったなら/村上春樹

 

エッセイは基本的にスコットランドおよびアイルランドのシングルモルトについて。

このあたりの用語の分かりにくさが、ウイスキーの人気が他に比べ落ちていた原因でしょう。

 

生半可な知識ですが、

ブレンディッド・ウイスキーが、大麦(モルト)とその他のトウモロコシなどの穀類(グレーン)をブレンドしたもの。

ピュアモルト・ウイスキーが、大麦のみで作ったもの。複数の醸造所の原酒をブレンド。

シングルモルト・ウイスキーが、ピュアモルトのうち、一つの醸造所の原酒で作ったウイスキー。

 

なお、以上はスコッチ・ウイスキー。

(バーボンは、逆にトウモロコシの比率が高くなるアメリカ独特のウイスキー。

ジム・ビーム、フォア・ローゼズ、ワイルド・ターキーなどがメジャーどころ。)

 

村上春樹が訪れたのは、スコットランドアイラ島(イギリス)とアイルランドですので、スコッチの方です。マッサンももちろんこっち。

村上春樹は前作読んでいますが、お酒と言えばビールとウイスキー。

でも、食べ物とセットのイメージ。

今作も、おいしそうな生ガキの話が出てきますが、基本的にウイスキーだけでもっていきます。

 

あとはタイトル通り、

僕らのことばがウイスキーであったなら…

というわけで、

ニッカの原点である本場スコットランドのウイスキー。

卒業生、保護者のみなさま、偶然訪れた大人のみなさまは実際に味わってみてください。

生徒の皆さんは、二十歳になった時に、ゆっくり味わってください。

こちら、シングルモルトウイスキー。
ちょっと値がはります。

ただ、必ずしもシングルモルトにこだわる必要はありません。

ブレンディッドの方が飲みやすく、食事には合うと言えると思います。

こちらはブレンディッドのスコッチ。
価格も手頃です。


ちなみにマッサンの目指してたハイランドケルト?はおそらくこれ。

ハイランドパーク。

本の紹介でなく、ウイスキーの紹介になってしまいました^^;、ガイドの一端にどうぞ。

読書の町宣言!石の肺/佐伯一麦

佐伯一麦(さえきかずみ)のルポ、「石の肺~僕のアスベスト履歴書」です。

 

佐伯一麦と言えば、ア・ルース・ボーイ!

青春文学の金字塔。

進学校の退学。赤ん坊。仕事と生活。

まだバブルの余韻の残る僕の高校時代、真摯に生きること、まっとうに生きることを教えてくれた名著です。

 

上記のア・ルース・ボーイはじめ、著作のほとんどは私小説の形式。

創作にあたって多少の脚色はあるものの、佐伯氏自身の歩みが作品の軸になっています。

 

佐伯さんはドロップアウトしてから、専業作家になるまで主に電気工として生計を立てていました。

今でこそアスベストむき出しの中で作業するなどとんでもないことですが、当時はそういった条件の仕事が危険性の認識もないままたくさんあったようです。

佐伯さんも電気工事の際のアスベストの被害者。

ビル天井の狭い中でアスベスト吹き付け現場の電気工事をやったことが、現在まで影響しているのです。

ぜんそくと肋膜炎、そして肺がんへの怯え。

 

で、アスベスト被害のルポタージュなのですが、ノンフィクションにありがちな国や企業への糾弾、正義を振りかざすことはまったくありません。

淡々と、冷静に、時に愛情さえ感じさせるほど、当時の状況を振り返ります。

 

文中にもありますが、アスベストのおかげで発展もあった、その一面も彼は見逃していません。

もっと言えば、みな、アスベストを含む「社会悪」に目をつぶりつつ、恩恵を享受してきたでしょう?というスタンスかと思います。

繰り返しますが、糾弾ではありません。

言うべきことは厳しく主張しますが、必要以上に正義をかざさない。

 

3丁目の夕日の話がちょっと否定的に出てくるのですが、もしかしたら「石の肺」は80年代のウラ三丁目の夕日なのかもしれません。

アスベスト被害について知りたい人はもちろん、時代の空気の匂い立つ文学作品としてもどうぞ。